東日本大震災から3年が経過しました。追悼、愛惜、回顧、悔恨、諦観、憤怒、感謝、希望、決意等々、
さまざまな思いが去来し、日本中が鎮魂の祈りに包まれた3.11。
私は、政府主催の「東日本大震災三周年追悼式」に出席。国立劇場にて約1200人が参加し、
厳粛な雰囲気の中、執り行われました。議会中ということもあり、私が確認した範囲では、
知事本人の出席は8人でした。
天皇陛下のおことばをはじめ、安倍総理の式辞、三権の長の挨拶、御遺族代表のことばと、
それぞれ鎮魂や復興に向けた、強い思いのこもった挨拶が続きました。しみじみ聞き入りながら、
言葉の力を感じたところです。
柔らかく簡潔な表現で思いを述べられた天皇陛下のおことば、特に、以下のくだりが印象的です。
「永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、
安全な国土を築くことを目指して、進んでいくことを期待しています。」
畏れ多いことながら、本県が口蹄疫からの再生・復興に向けて掲げる「忘れない そして前へ」
というフレーズと響き合うものがあります。
3時半頃から始まった献花。大まかな順番は、首相など三権の長に始まり、ご遺族代表、駐日
各国大使、各政党代表、閣僚、副大臣・政務官、衆議院議員、参議院議員と進んで、その次が
都道府県知事・議長となります。私に順番が回ってきたのが4時過ぎ。
今朝のNHKラジオによると、宮城県名取市では、地震が発生した2時46分のみならず、
津波が襲来した3時55分に黙祷を行うとのこと。地震発生から何と1時間10分! それだけの
長い時間に起こった様々なことに思いを馳せつつ、将来、再びそのような状況に置かれたとき、
この教訓をどう生かすことができるか、例えば、1時間以上も、これから来るかもしれない
大津波をじっと耐えて待ち続けることができるかなど、我々の担う課題に思いが至ります。
順番が回ってきたとき、まさに名取市などに津波が襲来してきた3年前のそのときに思いを
馳せながら、献花をさせていただきました。お亡くなりになられた方々のご冥福を衷心より
お祈り申し上げます。また、被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げ、引き続き、
県をあげて息長く被災地・被災者の支援に取り組んでいくことをお誓い申し上げます。
ちなみに、昭和63年7月、自治省から初めて地方赴任した職場が宮城県地方課。市町村から
県に派遣された多くの職員と、新人時代を過ごしました。名取市からの派遣職員、サウスポーで
ボーリングが上手く、私と同じ「俊」という字を名前に持つ彼も、現場で頑張っているだろうかと、
宮城県の市町村名を耳にするたびに、具体的な名前と顔を思い出しながら、心の中で激励の
エールを送っています。
「忘れない」ということに関して、いつも思うこと。この大震災の記憶、教訓は、数年でも、数十年
でもなく、少なくとも数百年というスパンで子々孫々に伝えていかなくてはなりません。50年ごとに
石碑が建てられ続けている外所地震供養碑は、そのような志を持った取組みの1つだと思います。
時が経過すればするほど、行政が果たす役割が極めて重要になってくると思っています。
「のど元過ぎれば・・・」というのは、人間、致し方ないところ。「忘れない」ための仕組みづくり、
しっかり考えていきたいところです。
そう考えると、今、県に入庁したての新人職員が、例えば40年後に退職する頃には、この
大震災後に生まれてきた世代に対し、その新しい世代の人間が、さらにその後の世代に対しても、
実体験した世代(だんだん少なくなっていく)と同じような危機感をもって伝えてもらうことが
できるよう、くどいほど強烈に語りかけ、刻みつけていくことが必要になってくるのではないかと
思っています。
少なくとも、現実問題として、福島第一原発の廃炉作業は、入庁したての新人職員が「現役」の間に
終了するかどうかという重い課題として、残り続けるわけです。私は、そもそもこの目で見届ける
ことができるかどうか・・・。ここ最近の新聞スポーツ欄、大震災3周年とからめてJビレッジを
取り上げ、現状の写真が掲載されていました。平成19年にサッカーの聖地として訪れた場所、
複雑な思いで見たところです。6年後のオリンピックを視野に入れつつも、果たして往時の賑わいを
取り戻すことができるのか。
様々な課題が山積する東日本大震災からの復旧・復興。とはいえ、ただ悲観することなく、
将来への希望を抱きながら、困難な課題に向き合っていきたいと思います。